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ものの見方・視点

2010年4月27日 (火)

多数決はフィクションである

 多数決はフィクションである。

 ずっと前からそう思っている。小学校の頃の学級会議。クラスで決めなきゃいけないことがあると、すぐ「多数決!」という話になった。多数の意見が全体の意見ということに、私たちは特に深い疑問を抱かずに育ってきた。
 でも、あるとき多数決って変だなと感じるようになった。学級会議ではクラス全体の意見というより、なんとなく声の大きな人の意見が通っていた。選挙では一人一票による多数決という方式が取られているが、大前研一氏の投じる一票と、私の投じる一票が同じ価値だとはとうてい思えない。感覚的には、大前さんには百万票ぐらいのあげてもよいくらいだ。

 現代の選挙は、有権者が平等であるという大原則からスタートする。20歳の若者も、人生経験豊富な80歳の高齢者も、一票の価値は同じである。人類は時間をかけて、現在の民主主義にたどりついたわけで、そのしかけは尊重したい。では、一人一票の原則、多数決の原則が成立するためには、どのような前提条件が必要なのだろうか。国会議員を選ぶということも多数決の一種であるので、選挙について考えてみた。選挙の場合、次の2点が満たされている必要があるだろう。

1.有権者ひとりひとりが、みな同じレベルの(まったく同じではなくても)知識と判断力を持っていると認めること。
2.少数派は多数派に従うことになるので(たとえ1票差であっても)、少数意見も含めて議論を尽くすために、十分な時間を確保すること。

 残念なことに、いまの日本の選挙ではどちらの条件も成立していない。有権者の知識や判断力はあまりにもバラバラだ。また公職選挙法では2週間しか選挙期間がなく、誰がどんな主張をしているのかがよくわからない(街頭演説はうるさいだけだし、宣伝カーは名前の連呼)。

 完璧な制度というものははなく、多数決もその例外ではない。問題は不完全だからといって、多数決をすぐに否定するのではなく、なぜ多数決がいまの民主主義の根幹になっているのかを理解することだろう。
 多数決というのは、全員が平等という美しい理念に基づく方法だが、その一方で「数の横暴」にもつながりやすい。多数決という方法を機能させるためには、「自分の意見をきちんと持つこと」「多様な意見を尊重すること」といった訓練を時間をかけて受ける必要がある。これは運転免許をとるよりも、ずっと大切なことではないだろうか。

 多数決よりもすぐれた方法は、いまのところ見つかっているとはいえない。株式会社のしくみでは、たとえ一人であっても、多数の株式を持つ大株主が会社を動かすことができる。このようなしくみを応用することは考えられてもよい。たとえば私が賢人とみなす人(たとえば大前研一氏)に、自分の投票権を委託するというようなかたちだ。大前氏が100万票を集めたら、その100万票を彼の意思で投票する。このようなやり方は危険も伴うが、判断力の高い人が投票を行うという利点もある。

 政治の世界でも、単純多数決がこのまま続くという保証はない。代議員制だって大きく変わる可能性もある。Web2.0の世界では、家にいながら直接投票することも可能なのだから(個人認証の問題さえクリアすれば)。政策決定についても、商品開発の世界と同じように、クラウドソーシングの力を借りることになるかもしれない。よりよい制度を目指す動きをおそれてはいけない。でもその前に、まずは多数決制度を自分のものにするべきだと私は思う。

2010年4月23日 (金)

細切れ化する時間(電子書籍の未来)

 昨日、友人のKさんと話をしていたら、「電子書籍」のテーマになる。Kさんは2冊の本をすでに世に送り出している大先輩。Kさんは、「電子書籍の普及によって、出版流通が簡素化されると書籍の値段が安くなり、これまでよりもたくさん本が売れるのではないか」とのごい意見を披露してくださった。
 電子書籍の出現によって、書籍の単価が下落するのはほぼ間違いがなさそうだ。ユニクロが流通を簡素化したことによって、日本の衣料品の価格が低下したように。ただし、単価が下がったからといって、たくさん本が売れるのかどうかというところには、疑問符がつく。
 ユニクロの場合、他社と比べて単価は下がったが、買うボリュームも増えた。売上=単価×ボリュームなので、ボリュームが増えた分が貢献して、全体として売上は上がった。では、書籍の場合も同じことがあてはまるのだろうか? 電子化によって単価が下がることにより、もっとたくさん本が読まれるようになるのだろうか?
 単価が下がることにより、これまであまり本を読んでいなかった人たちが本を読むようになるなら、それもあるだろう。コミックなどの分野ではそういうこともありそうだ。お小遣いでは十分なコミックを買い揃えられないので、マンガ喫茶で読んでいたような人たちが、電子化された漫画を購入するという可能性はある。この場合は、マンガ喫茶の売上が電子書籍に移転する(新しいニーズを掘り起こしたわけではない)。
 コミックではない、活字中心の書籍の場合はどうだろうか?単価が下がると、需要も増えるのだろうか。これは難しいと思う。もともと読書の習慣がない人であれば、単価が下がったからといって本を読む気にはならないだろう。自分にとって価値がないものなら、タダであっても欲しくはないと考えるのが普通だと思う。では、もともと読書の習慣がある人がより多くの本を読むようになるという可能性はどうだろうか?これもなかなか難しいと思う。
 作家の日垣隆さんによると、現在の日本で読書の習慣が身についている人は、おそらく20万人程度とのこと。おそらく忙しい中で時間をやりくりしながら、読書を続けていることだろう(自分自身も読書のための時間はなかなかとれない)。このグループの人たちは、本をもっと読みたいという気持ちは強いが、時間がままならないので、読めずにいる本が家の中には山積みになっている場合が多いだろう(私がそうだから)。電子書籍になって、単価が低くなったからといって、ばんばんダウンロードしても、読みきれないデーターがiPadまたはKindleに積み上がるだけになる(物理的にスペースをとらないことはよいけれど)。
 当たり前のことだけど、本を読むには時間がかかる。読書という行為に使うリソースの中では、時間がもっとも重要なのだ。この時間の問題を克服できないかぎり、単価下落が需要増加にはつながらない。衣料品では時間は問題にならない。しかし本の場合は決定的に時間が重要だ。速読術が発達するなど、何らかのブレークスルーがない限り、従来の形態の本が数多く読まれるという可能性は低いと思う。

 このように考えると、「従来の形態の本」に対する需要が爆発的に盛り上がるということはないだろう。その一方で、「これまでにない形態の本」が大きな力を持つことになると、私は予想する。200ページといった長い本ではなく、10ページから20ページぐらいの内容をひとつの本(記事?)として、電子書籍化する流れがでてくるだろう。本の「細切れ化現象」といってもより。この細切れの「本」を100円程度で販売するというビジネスは、おおいに可能性がある。音楽業界では、iPodの出現によってアルバムビジネスが崩壊した。その代わり曲が細切れ化して音楽を聞く人が増えた。同様に、出版業界では、電子書籍の登場によって分厚い本の需要が減り(なくなることはない)、細切れ本が多く出回ることになる。トータルでは活字文化は活性化される。
 現代人の時間は細切れになっている。なかなかまとまった時間がとれない。Twitterがはやっているのも、それが細切れ時間にマッチしたツールだという点が大きい。活字の世界も、この時間の細切れ化に適応したものになっていくというのが自然の流れだろう。

 出版業界では、しばらくはこの細切れ化の勢いが強まると思われる。しかし行き過ぎた細切れ化は、回帰をもたらす。まとまった時間を使って、まとまった考え方を発表する書籍の価値は一部の人たちの間では再評価される。そのような書籍の価値は当然高いものになるはずなので、電子化ておコンテンツを安売りする必要はないだろう。つまり、細切れの情報は電子化により低価格化し、まとまった情報は電子化によっても価格を維持したままという「二極化」の現象がおこる。まとまった情報の提供者は、電子化の波の中でもしぶとく生き残るし、むしろその立場を強めることになるのではないだろうか。

 少し前の話になるが、不正コピー防止のために音楽CDにコピーガードを施すことが多かった。iPodの普及率が高まった後は、コピーガードをかけることにより販売が落ち込むことがわかり、CDにはガードがかけられないようになった。こんな動きの中で、私の敬愛する山下達郎さんは自分のCDにいっさいガードをかけなかった。彼は本質を理解していたのだ。自分の仕事をきちんとしていればファンはついてくるということを。たしかにそのとおり。本物は残りました。さすが師匠。

 

2010年4月21日 (水)

iPhoneは携帯電話ではない!

 一ヶ月ほど前から iPhone を使い始めた。作家・ジャーナリストの日垣隆さんが開催する読書会で、KindleまたはiPhoneを使った電子書籍の読み方を紹介すると告知があったことがきっかけだ。もちろん多くのiPhoneユーザーと同じく、これまで使っている携帯はそのまま使っている。実際にiPhoneを使ってみると、その機能の多彩さには驚くばかり。携帯やiPodだけでなく、YouTubeやTwitterをスムーズに使いこなすことができる。アプリも豊富に用意されて、これさえあれば一日時間をつぶせそうだ(バッテリーが続く限り)。

 そこで iPhone をまだ使っていない知人に薦めてみる。
「いや~、最近携帯を替えたばかりだから。契約が切れてからにするよ。」との答え。

 「ちょっと、違うんだけどな・・・」と内心では思う。しかしそこからどう話を進めていけばよいのか思いつかない。iPhone=携帯電話ととらえている人に、iPhoneの持つ良さを短い言葉で伝えるのはなかなか難しい。ちまたでは、iPhoneを「スマートフォン」という呼び方をし、携帯電話の中でもビジネスユースに強い機種というかたちで紹介される。ただ、実際に使ってみると、iPhoneは「優れもの携帯電話」とはちょっと違う感じがする。この感じをどう伝えたらよいのだろう。「電話もできて、音楽が聴けて、動画が見られて、ツイッターができて、ゲームもできるんだよ」というのでは、何か伝え切れていないものを感じてしまう(間違いではないのだけれど)。パソコンを小さくしたものというのも、違う気がする。

 あるモノを説明するために、私たちはよくカテゴリーに分類する(iPhoneは携帯電話、この本は小説というジャンル、あの人はA型などなど)。便利な方法であるのは間違いない。説明する側とされる側が、従来のカテゴリー分けに共通の認識をもっていれば、説明もスムーズにいくからだ。

 しかし、カテゴリー分けにはデメリットもある。それは、あるカテゴリーに分類することによって、そのモノの持つ性質の一部しか見えなくなってしまうことだ。iPhoneに電話機能がついているのは間違いないが、同時にデジカメでもあり、音楽プレイヤーでもあり、小さいパソコンでもある。電話とデジカメとiPodとネットブックを別々にそろえれば、iPhoneになるのかというとそうではない。さまざまな機能が一体化したことにより、iPhoneではこれまで難しかったことが、いとも簡単に可能になる(ツイッターで現場から写真を世界中に送ることなど)。ひとつひとつの機能自体は特に目新しいものではなくても、それがひとつのパッケージになると、これまでとは違った使い方ができる。

 このように考えると、iPhone=携帯電話ととらえるのは、デメリットのほうが大きい気がする。私たちは分類して、いろいろなものにラベルをつけることに慣れている。しかし、分類することによって失うものもある。iPhoneに限らず、自分の身の回りのものやサービスを、従来の分類とは別の観点で、「ありのまま」見つめることが必要なのではないだろうか。頭でっかちになって、既存のカテゴリーにこだわる人は、iPhoneにはなかなか手がでないだろう。だって、その人の頭の中ではあくまで携帯の一種なのだから。これはもったいない話だと思う。

 私が扱っている「変額保険」という商品も、iPhoneと同じような問題がある。保険という名前がついているために、ほとんどの人が従来の保険と同じように受け止めてしまうのだ。変額保険はたしかに分類上は生命保険に属することになるが、実際はかなり「投資信託」に近いものだ。生命保険の分野から投資信託に近づいた商品が、変額保険ということになる。反対に投資信託の分野から生命保険に近づけば、「保障機能つき投資信託」という分類になることだろう(注:実際にはこういう呼び方はしません)。
 
 変額保険はうまく活用すれば、資産運用には有効な手段となる。ところが「保険」という名前がついていることによって、損をしている。「生命保険は資産運用に向いていない」という世間の常識が、素直に物事を見ることを妨げてしまっている。もったいないなあと感じる。保険と投資は別々に考えるというのが、世間では常識のようだが、必ずしもそうではない。生命保険も投資信託も金融商品という大きなカテゴリーではさしたる違いはない(資金を金融機関預け、一定の条件の下に見返りを受けるという意味で)。

 iPhoneの立場からすれば、携帯電話に分類されるのは不本意だと思う。それでも実際に使ったユーザーからの支持を得て、iPhoneは爆発的に売れている。やぱり使ってみた人にはわかるのだ。私のお客様の中には、変額保険フリークといえるような人もいる。世間の風に負けずに、多くの人をunlearn(常識の呪縛をとくこと)していこう。柔軟な脳を持つ人なら、私の言いたいこと(ちょっと変わっている?)こともきっと伝わるはずだから。



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