多数決はフィクションである
多数決はフィクションである。
ずっと前からそう思っている。小学校の頃の学級会議。クラスで決めなきゃいけないことがあると、すぐ「多数決!」という話になった。多数の意見が全体の意見ということに、私たちは特に深い疑問を抱かずに育ってきた。
でも、あるとき多数決って変だなと感じるようになった。学級会議ではクラス全体の意見というより、なんとなく声の大きな人の意見が通っていた。選挙では一人一票による多数決という方式が取られているが、大前研一氏の投じる一票と、私の投じる一票が同じ価値だとはとうてい思えない。感覚的には、大前さんには百万票ぐらいのあげてもよいくらいだ。
現代の選挙は、有権者が平等であるという大原則からスタートする。20歳の若者も、人生経験豊富な80歳の高齢者も、一票の価値は同じである。人類は時間をかけて、現在の民主主義にたどりついたわけで、そのしかけは尊重したい。では、一人一票の原則、多数決の原則が成立するためには、どのような前提条件が必要なのだろうか。国会議員を選ぶということも多数決の一種であるので、選挙について考えてみた。選挙の場合、次の2点が満たされている必要があるだろう。
1.有権者ひとりひとりが、みな同じレベルの(まったく同じではなくても)知識と判断力を持っていると認めること。
2.少数派は多数派に従うことになるので(たとえ1票差であっても)、少数意見も含めて議論を尽くすために、十分な時間を確保すること。
残念なことに、いまの日本の選挙ではどちらの条件も成立していない。有権者の知識や判断力はあまりにもバラバラだ。また公職選挙法では2週間しか選挙期間がなく、誰がどんな主張をしているのかがよくわからない(街頭演説はうるさいだけだし、宣伝カーは名前の連呼)。
完璧な制度というものははなく、多数決もその例外ではない。問題は不完全だからといって、多数決をすぐに否定するのではなく、なぜ多数決がいまの民主主義の根幹になっているのかを理解することだろう。
多数決というのは、全員が平等という美しい理念に基づく方法だが、その一方で「数の横暴」にもつながりやすい。多数決という方法を機能させるためには、「自分の意見をきちんと持つこと」「多様な意見を尊重すること」といった訓練を時間をかけて受ける必要がある。これは運転免許をとるよりも、ずっと大切なことではないだろうか。
多数決よりもすぐれた方法は、いまのところ見つかっているとはいえない。株式会社のしくみでは、たとえ一人であっても、多数の株式を持つ大株主が会社を動かすことができる。このようなしくみを応用することは考えられてもよい。たとえば私が賢人とみなす人(たとえば大前研一氏)に、自分の投票権を委託するというようなかたちだ。大前氏が100万票を集めたら、その100万票を彼の意思で投票する。このようなやり方は危険も伴うが、判断力の高い人が投票を行うという利点もある。
政治の世界でも、単純多数決がこのまま続くという保証はない。代議員制だって大きく変わる可能性もある。Web2.0の世界では、家にいながら直接投票することも可能なのだから(個人認証の問題さえクリアすれば)。政策決定についても、商品開発の世界と同じように、クラウドソーシングの力を借りることになるかもしれない。よりよい制度を目指す動きをおそれてはいけない。でもその前に、まずは多数決制度を自分のものにするべきだと私は思う。








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