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2010年4月

2010年4月27日 (火)

多数決はフィクションである

 多数決はフィクションである。

 ずっと前からそう思っている。小学校の頃の学級会議。クラスで決めなきゃいけないことがあると、すぐ「多数決!」という話になった。多数の意見が全体の意見ということに、私たちは特に深い疑問を抱かずに育ってきた。
 でも、あるとき多数決って変だなと感じるようになった。学級会議ではクラス全体の意見というより、なんとなく声の大きな人の意見が通っていた。選挙では一人一票による多数決という方式が取られているが、大前研一氏の投じる一票と、私の投じる一票が同じ価値だとはとうてい思えない。感覚的には、大前さんには百万票ぐらいのあげてもよいくらいだ。

 現代の選挙は、有権者が平等であるという大原則からスタートする。20歳の若者も、人生経験豊富な80歳の高齢者も、一票の価値は同じである。人類は時間をかけて、現在の民主主義にたどりついたわけで、そのしかけは尊重したい。では、一人一票の原則、多数決の原則が成立するためには、どのような前提条件が必要なのだろうか。国会議員を選ぶということも多数決の一種であるので、選挙について考えてみた。選挙の場合、次の2点が満たされている必要があるだろう。

1.有権者ひとりひとりが、みな同じレベルの(まったく同じではなくても)知識と判断力を持っていると認めること。
2.少数派は多数派に従うことになるので(たとえ1票差であっても)、少数意見も含めて議論を尽くすために、十分な時間を確保すること。

 残念なことに、いまの日本の選挙ではどちらの条件も成立していない。有権者の知識や判断力はあまりにもバラバラだ。また公職選挙法では2週間しか選挙期間がなく、誰がどんな主張をしているのかがよくわからない(街頭演説はうるさいだけだし、宣伝カーは名前の連呼)。

 完璧な制度というものははなく、多数決もその例外ではない。問題は不完全だからといって、多数決をすぐに否定するのではなく、なぜ多数決がいまの民主主義の根幹になっているのかを理解することだろう。
 多数決というのは、全員が平等という美しい理念に基づく方法だが、その一方で「数の横暴」にもつながりやすい。多数決という方法を機能させるためには、「自分の意見をきちんと持つこと」「多様な意見を尊重すること」といった訓練を時間をかけて受ける必要がある。これは運転免許をとるよりも、ずっと大切なことではないだろうか。

 多数決よりもすぐれた方法は、いまのところ見つかっているとはいえない。株式会社のしくみでは、たとえ一人であっても、多数の株式を持つ大株主が会社を動かすことができる。このようなしくみを応用することは考えられてもよい。たとえば私が賢人とみなす人(たとえば大前研一氏)に、自分の投票権を委託するというようなかたちだ。大前氏が100万票を集めたら、その100万票を彼の意思で投票する。このようなやり方は危険も伴うが、判断力の高い人が投票を行うという利点もある。

 政治の世界でも、単純多数決がこのまま続くという保証はない。代議員制だって大きく変わる可能性もある。Web2.0の世界では、家にいながら直接投票することも可能なのだから(個人認証の問題さえクリアすれば)。政策決定についても、商品開発の世界と同じように、クラウドソーシングの力を借りることになるかもしれない。よりよい制度を目指す動きをおそれてはいけない。でもその前に、まずは多数決制度を自分のものにするべきだと私は思う。

2010年4月26日 (月)

金融商品の「食わず嫌い」をなくそう!

 30年以上前、中学生の頃は『週刊少年チャンピオン』を読むのが楽しみだった。『ドカベン』や『ブラックジャック』などといたメインのマンガに加えて、独特の色を出していたのが『マカロニほうれん荘』(鴨川つばめ著)。異色の三人組みがおりなすドタバタ感で、一世を風靡したものだ。先日、御茶ノ水のビレッジバンガードを徘徊していると、『マカロニほうれん荘』の第1巻が売られているのに気づく。懐かしいなと思いながら、さっそく購入&購読。


 昔を思い出しながら、ワクワクしながら読み始めると・・・・・

笑えない。当時のドタバタ感が伝わってこない。ただこっけいなだけ。なぜだろう?

 自分が歳をとったというのは、もちらんひとつの理由だ。でもそれだけじゃない。いまの中学生に『マカロニほうれん荘』を読んでもらっても、やっぱり笑えないと思う。時代背景がわからないからだけじゃなくて、笑いの「質」が違うと思うからだ。

 マンガの世界は日々進歩している。昔笑えたマンガでも、時間がたつと笑いがとれなくなる。文学と一緒で、長く読み続けられるマンガはほんの一握りでしかない。『マカロニほうれん荘』ほどの作品でも(すでに60刷までいっている)例外ではないということだろう。

 この背景には、読者の進歩がある。いちど笑ったネタでは、読者はもう笑わない。作者は次から次へと新しいネタを想像しなければならない。読者と作者の側のせめぎあいによって、より質の高いマンガが生み出されてきた。

 作り手と買い手の間のせめぎあいによって質が高まる、という例はマンガに限らない。食べものは、昔にくらべてずっと美味しくなった。まずいものは消費者が認めてくれないので、どんどん進化していったというわけだ。最近では味覚だけでなく、素材に対するこだわりも重要になっている。なぜ食べ物に関して進歩が早いのかというと、食べ物は口にすればすぐによいか悪いか判断できるからだ。マンガの場合も、読めば面白いか面白くないかはすぐわかる。

 消費頻度の高い商品やサービスの場合、消費者は日常生活を通してどんどん賢くなっていく。提供する側は賢い消費者が満足してくれるように努力しなければならないので、クオリティは自然に上がっていく。消費者、提供者ともに誠実さを忘れなければ、これは好循環であり、理想的なかたちだと思う。

 一方で、商品頻度の低い商品やサービスに関しては、なかなかこのような循環にはなりにくい。消費者は商品やサービスについて接する機会がないので、すぐに判断ができないからだ。食べ物について「うまい」「まずい」を判断するのと、お葬式に使う棺おけをどのグレードにするのかを判断するのを、同じ時間でできる人はいないだろう。判断基準がないときは、どうしても提供者側の言いなりになってしまいがちだ。棺おけの例でいえば、葬儀までの時間は決まっているので、長い間考えているわけにいかなり。だから必要以上に高いものを購入しがちになってしまう。

 棺おけは究極の例だとは思うが、金融商品についても同じようなことがいえる。金融商品のうちでも、投資商品や生命保険のようなものは、特に考える機会が少ない。そのためどうしても金融機関のいいなりになりやすい。消費者として防衛する手段としては、自分で勉強するということに尽きる。しかし、勉強するにはある程度まとまった時間が必要だ。いまのように多くの人の時間が細切れになっていると、なかなかそのような時間はとりにくい。悩ましい問題だ。

 棺おけのことが知りたければ、本を読んだり、経験者にたずねるのが早道だ。金融商品の場合でも同じである。経験者ということであれば、てっとり早いのは金融機関の人にたずねることだ。ただここに大きな問題がある。金融機関の人間が自分たちに都合の悪いことを話すだろうかという問題だ。

 本来であれば、金融機関の人間は誠実に答えるべきだろう。食べ物に関していえば、作り手は毎日消費者の厳しい舌に対応することで、自分たちを磨いてきた。毎日が消費者、提供者にとって学習の場なのだ。金融商品に関しても、賢い消費者を育てることによって、自分を厳しい立場に追い込むことが、進歩につながっていくというのがまっとうな道なのではないだろうか。
 
 ただ、現実には勉強の機会を提供しようという金融機関は非常に少ない。セミナーを多数開催するといっても、結局は商品の説明会になっているケースがほとんどだ。現在加入している生命保険をみれば、それが知人から勧められたものなのか、そうではないのかはすぐにわかる。金融機関は、賢い消費者を育てると、儲けが少なくなると考えているのだろう(でも知り合いには悪く言われたくない)。結果として、金融教育は進まず、多くの人たちはリスクの少ない預金にお金を預けることになる。その預金が国債にまわって、最終的には自分たちの首を絞めることになるにもかかわらず。

 この循環を断つのは簡単なことではない。ひとついえることは、気づいた人はまず実行して欲しいということ。少額でもかまわないから投資商品を買ってみるとか、本やセミナーに参加して勉強してみるとか、何か行動を起こすことをお勧めする。私のところに相談にいらっしゃるお客様は、よく勉強している人が多い。勉強し、実際にやってみて、うまくいかない人なので、話をしても吸収するスピードが速い。食べ物の例でいえば、食べたことのある人は進化するスピードも速いようだ。まずいものを知っている人は、うまいものに対する要求度も高いということなのだろう。

「食わず嫌い」と、「食べてから嫌いになる」というのは、まったく違うこと。
まず食べることから始めよう!
 
 



2010年4月23日 (金)

細切れ化する時間(電子書籍の未来)

 昨日、友人のKさんと話をしていたら、「電子書籍」のテーマになる。Kさんは2冊の本をすでに世に送り出している大先輩。Kさんは、「電子書籍の普及によって、出版流通が簡素化されると書籍の値段が安くなり、これまでよりもたくさん本が売れるのではないか」とのごい意見を披露してくださった。
 電子書籍の出現によって、書籍の単価が下落するのはほぼ間違いがなさそうだ。ユニクロが流通を簡素化したことによって、日本の衣料品の価格が低下したように。ただし、単価が下がったからといって、たくさん本が売れるのかどうかというところには、疑問符がつく。
 ユニクロの場合、他社と比べて単価は下がったが、買うボリュームも増えた。売上=単価×ボリュームなので、ボリュームが増えた分が貢献して、全体として売上は上がった。では、書籍の場合も同じことがあてはまるのだろうか? 電子化によって単価が下がることにより、もっとたくさん本が読まれるようになるのだろうか?
 単価が下がることにより、これまであまり本を読んでいなかった人たちが本を読むようになるなら、それもあるだろう。コミックなどの分野ではそういうこともありそうだ。お小遣いでは十分なコミックを買い揃えられないので、マンガ喫茶で読んでいたような人たちが、電子化された漫画を購入するという可能性はある。この場合は、マンガ喫茶の売上が電子書籍に移転する(新しいニーズを掘り起こしたわけではない)。
 コミックではない、活字中心の書籍の場合はどうだろうか?単価が下がると、需要も増えるのだろうか。これは難しいと思う。もともと読書の習慣がない人であれば、単価が下がったからといって本を読む気にはならないだろう。自分にとって価値がないものなら、タダであっても欲しくはないと考えるのが普通だと思う。では、もともと読書の習慣がある人がより多くの本を読むようになるという可能性はどうだろうか?これもなかなか難しいと思う。
 作家の日垣隆さんによると、現在の日本で読書の習慣が身についている人は、おそらく20万人程度とのこと。おそらく忙しい中で時間をやりくりしながら、読書を続けていることだろう(自分自身も読書のための時間はなかなかとれない)。このグループの人たちは、本をもっと読みたいという気持ちは強いが、時間がままならないので、読めずにいる本が家の中には山積みになっている場合が多いだろう(私がそうだから)。電子書籍になって、単価が低くなったからといって、ばんばんダウンロードしても、読みきれないデーターがiPadまたはKindleに積み上がるだけになる(物理的にスペースをとらないことはよいけれど)。
 当たり前のことだけど、本を読むには時間がかかる。読書という行為に使うリソースの中では、時間がもっとも重要なのだ。この時間の問題を克服できないかぎり、単価下落が需要増加にはつながらない。衣料品では時間は問題にならない。しかし本の場合は決定的に時間が重要だ。速読術が発達するなど、何らかのブレークスルーがない限り、従来の形態の本が数多く読まれるという可能性は低いと思う。

 このように考えると、「従来の形態の本」に対する需要が爆発的に盛り上がるということはないだろう。その一方で、「これまでにない形態の本」が大きな力を持つことになると、私は予想する。200ページといった長い本ではなく、10ページから20ページぐらいの内容をひとつの本(記事?)として、電子書籍化する流れがでてくるだろう。本の「細切れ化現象」といってもより。この細切れの「本」を100円程度で販売するというビジネスは、おおいに可能性がある。音楽業界では、iPodの出現によってアルバムビジネスが崩壊した。その代わり曲が細切れ化して音楽を聞く人が増えた。同様に、出版業界では、電子書籍の登場によって分厚い本の需要が減り(なくなることはない)、細切れ本が多く出回ることになる。トータルでは活字文化は活性化される。
 現代人の時間は細切れになっている。なかなかまとまった時間がとれない。Twitterがはやっているのも、それが細切れ時間にマッチしたツールだという点が大きい。活字の世界も、この時間の細切れ化に適応したものになっていくというのが自然の流れだろう。

 出版業界では、しばらくはこの細切れ化の勢いが強まると思われる。しかし行き過ぎた細切れ化は、回帰をもたらす。まとまった時間を使って、まとまった考え方を発表する書籍の価値は一部の人たちの間では再評価される。そのような書籍の価値は当然高いものになるはずなので、電子化ておコンテンツを安売りする必要はないだろう。つまり、細切れの情報は電子化により低価格化し、まとまった情報は電子化によっても価格を維持したままという「二極化」の現象がおこる。まとまった情報の提供者は、電子化の波の中でもしぶとく生き残るし、むしろその立場を強めることになるのではないだろうか。

 少し前の話になるが、不正コピー防止のために音楽CDにコピーガードを施すことが多かった。iPodの普及率が高まった後は、コピーガードをかけることにより販売が落ち込むことがわかり、CDにはガードがかけられないようになった。こんな動きの中で、私の敬愛する山下達郎さんは自分のCDにいっさいガードをかけなかった。彼は本質を理解していたのだ。自分の仕事をきちんとしていればファンはついてくるということを。たしかにそのとおり。本物は残りました。さすが師匠。

 

2010年4月22日 (木)

「安く買い、高く売る」のは難しい

 「安く買って、高く売る」 
 それが資産運用の王道。たしかに誰が見ても、間違いではありませんね。プロ投資家であれば、先物取引を利用することで、まず売っておいて値段が下がってから買い戻すといったことができますが、普通の人にとっては現実的ではありません。個人投資家の場合、やっぱり「買う」ところからスタートするのが自然です。
 安いときに買い、高いときに売るというのは、言葉としては簡単なのですが、実践するのは難しいです。リーマンショック後に株価が急落した局面では、安くなった株式を買うチャンスでした。しかし毎日株価が下落し、底が見えないところで株を買うのは勇気が必要です。人間心理として、どうしても弱気になってしまい、もう少し様子を見てからという気持ちが強くなります。ほとんどの場合、そんな風にぐずぐずしている間に株価は反転し、チャンスを逃してしまうことでしょう。いまから考えれば、2009年3月あたりは絶好の買いタイミングでしたが、それはいま(2010年4月)の時点だからいえることで、2009年3月の時点では誰にもわかりませんでした。一定の時間が経過した後、後付けで「あのときがチャンスだった」といっても何の意味もありません。そのときに株を買うという行動ができるという点が重要なのです。

 では、どうすれば株が値下がりしているときに買うことができるのでしょうか。その具体的な方法については、拙書『預金、やめた。』(ダイヤモンド社)で詳しく解説したので、ここでは違った視点から考えてみたいと思います。
 当たり前のことで恐縮なのですが、株取引には「買い」と「売り」があります。相場の動きとの関係で売り買いをするので、売り買いそれぞれについて2つのパターンにわけることができます。

(買い1)値下がりしているときに買う
(買い2)値上がりしているときに買う

(売り1)値下がりしているときに売る
(売り2)値上がりしているときに売る

 買いと売りをセットにすると、以下の4つの組み合わせができあがります。

A 値下がりしているときに買い、値下がりしているときに売る
B 値下がりしているときに買い、値上がりしているときに売る
C 値上がりしているときに買い、値下がりしているときに売る
D 値上がりしているときに買い、値上がりしているときに売る

 ここで「値下がり」「値上がり」といっているのは、相場のトレンドのことを指しています。Aの例であれば、それまで1000円の株が800円になったところで売るという意味ではなく、1200円から1000円に値下がりしたトレンドで株を買い、しばらく保有した後、値下がりトレンドの中で売ったという意味です。Aのケースだと必ず損をするかのような印象を受けますが、儲かっていることもあるのでご注意ください。
 
 4つの組み合わせの中では、Bの「値下がりしているときに買い、値上がりしているときに売る」がベストです。まさに王道そのものですね。最悪はCの「値上がりしているときに買い、値下がりしているときに売る」。残ったAとDについてはどちらがいいとは言い難いのですが、Dのように値上がりしているときに買い、そのまま値上がりが続いている中で、株を売ることができれば気分的には最高だと思います。一方で、Aのように値下がりしているときに買うのは勇気がいる行為ですが、値段が下がっているところからスタートしているので、失敗する確率は低いと思います。

 理屈上は、B>AまたはD>C というランク付けになりますが、個人投資家が実際にやっているのはCのケースが非常に多いのが現状です。値段が下がっているときにわざわざ株を買うという人は、残念ながらまだまだ少ないと思います。本当はそのほうが成功の確率は高いのだけど。多くの人は、株が値上がりしているときに投資を始め、しばらくいい思いをした後で、出口を見つけられないまま損を抱えることになります。

 資産運用に取り組まないと、なかなかお金は増えていかない。しかしその一方で、心理的に「安く買い、高く売る」というのは難しい。このジレンマを解決しないかぎり先には進めません。ひとつの方法としては、何らかの理由で値段が下がっている会社の株を買うというようなことが考えられますが、一個人が価値のある情報を、適法に集めることはなかなかできません。資金と時間に余裕がある人なら別ですが、大多数の人にとっては現実的な方法とはいえないのではないでしょうか。

 ではどうすればいいのでしょうか。行き詰ってしまった場合は、考え方をジャンプさせてみましょう。問題は「値下がり」や「値上がり」が予測できないことにあります。それについて予測してしまうから悩みがつのることになるのです。値動きを考える必要はなければ、それに越したことはありません。

 したがって、結論はシンプルです。「値動きに関係なく買い、値動きに関係なく売る」 それが答えです。100の資金があったら、全部をいちどに投資するのではなく、10または100に分けて、少しずつ資産を購入する。こうすれば値動きの影響を減らすことができます。「ドルコスト平均法」といわれる方法ですね。従業員持株会などで採用されている方法です。投資信託などでも毎月一定額を買い付けるというしくみがあります。ポイントはルールに基づいて機械的にやること。感情の要素が入ってくると失敗しやすいのでご注意。

 ドルコスト平均法については、心ある専門家はみなさん指摘されているので、ご存知の人も多いと思います。しかし、これだけでは物事の半分しか見えていないと思います。資産運用は「買い」と「売り」がセットになっているのですから。ドルコスト平均法は、買うときに値動きの影響を減らすためには有効だけれど、売るときに関しては何も教えてくれません。相場は生き物なので、値動きの影響を減らしたいのであれば、定期的に資産を買うのと同じように、定期的に資産を売るということも覚えておくべきなのではないでしょうか。買うことだけにフォーカスして、売ることはわかりませんというのは、親切ではありません。ドルコスト平均法を使って資産を積み上げていっても、相場が暴落したら、もろに影響をかぶってしまいます。もしそれが自分の退職のときだったりしたら目も当てられません。

 この考えを進めていくと、買うときはドルコスト平均法を活用し、使い時には少しずつ現金化していくのがよいということになります。具体的には、確定拠出年金(401K)や変額年金・変額保険のしくみが有効でしょう(ただし商品によっては有効でない場合も多いので、内容はよく確認する必要があります)。これらのしくみは。こつこつと積み立てて、使うときには少しずつ年金というかたちで現金化することができます。うまく活用すれば、相場の影響を受けにくいしくみを作り上げることができるはずです。感情に左右されずに資産運用を続けるには、何らかのしくみが絶対に必要です。

 今回は「ドルコスト平均法」の考え方を、売る場合にも活用できることを紹介しました。当たり前のことなのですが、なかなか気づかないかも知れません。参考にしてみてください。ひとつ気になっているのが、この考え方を説明する用語がないこと。「逆・ドルコスト平均法」というのもおかしいので、よいネーミングを思いついた人は、ぜひ教えてくださいね。
 

2010年4月21日 (水)

iPhoneは携帯電話ではない!

 一ヶ月ほど前から iPhone を使い始めた。作家・ジャーナリストの日垣隆さんが開催する読書会で、KindleまたはiPhoneを使った電子書籍の読み方を紹介すると告知があったことがきっかけだ。もちろん多くのiPhoneユーザーと同じく、これまで使っている携帯はそのまま使っている。実際にiPhoneを使ってみると、その機能の多彩さには驚くばかり。携帯やiPodだけでなく、YouTubeやTwitterをスムーズに使いこなすことができる。アプリも豊富に用意されて、これさえあれば一日時間をつぶせそうだ(バッテリーが続く限り)。

 そこで iPhone をまだ使っていない知人に薦めてみる。
「いや~、最近携帯を替えたばかりだから。契約が切れてからにするよ。」との答え。

 「ちょっと、違うんだけどな・・・」と内心では思う。しかしそこからどう話を進めていけばよいのか思いつかない。iPhone=携帯電話ととらえている人に、iPhoneの持つ良さを短い言葉で伝えるのはなかなか難しい。ちまたでは、iPhoneを「スマートフォン」という呼び方をし、携帯電話の中でもビジネスユースに強い機種というかたちで紹介される。ただ、実際に使ってみると、iPhoneは「優れもの携帯電話」とはちょっと違う感じがする。この感じをどう伝えたらよいのだろう。「電話もできて、音楽が聴けて、動画が見られて、ツイッターができて、ゲームもできるんだよ」というのでは、何か伝え切れていないものを感じてしまう(間違いではないのだけれど)。パソコンを小さくしたものというのも、違う気がする。

 あるモノを説明するために、私たちはよくカテゴリーに分類する(iPhoneは携帯電話、この本は小説というジャンル、あの人はA型などなど)。便利な方法であるのは間違いない。説明する側とされる側が、従来のカテゴリー分けに共通の認識をもっていれば、説明もスムーズにいくからだ。

 しかし、カテゴリー分けにはデメリットもある。それは、あるカテゴリーに分類することによって、そのモノの持つ性質の一部しか見えなくなってしまうことだ。iPhoneに電話機能がついているのは間違いないが、同時にデジカメでもあり、音楽プレイヤーでもあり、小さいパソコンでもある。電話とデジカメとiPodとネットブックを別々にそろえれば、iPhoneになるのかというとそうではない。さまざまな機能が一体化したことにより、iPhoneではこれまで難しかったことが、いとも簡単に可能になる(ツイッターで現場から写真を世界中に送ることなど)。ひとつひとつの機能自体は特に目新しいものではなくても、それがひとつのパッケージになると、これまでとは違った使い方ができる。

 このように考えると、iPhone=携帯電話ととらえるのは、デメリットのほうが大きい気がする。私たちは分類して、いろいろなものにラベルをつけることに慣れている。しかし、分類することによって失うものもある。iPhoneに限らず、自分の身の回りのものやサービスを、従来の分類とは別の観点で、「ありのまま」見つめることが必要なのではないだろうか。頭でっかちになって、既存のカテゴリーにこだわる人は、iPhoneにはなかなか手がでないだろう。だって、その人の頭の中ではあくまで携帯の一種なのだから。これはもったいない話だと思う。

 私が扱っている「変額保険」という商品も、iPhoneと同じような問題がある。保険という名前がついているために、ほとんどの人が従来の保険と同じように受け止めてしまうのだ。変額保険はたしかに分類上は生命保険に属することになるが、実際はかなり「投資信託」に近いものだ。生命保険の分野から投資信託に近づいた商品が、変額保険ということになる。反対に投資信託の分野から生命保険に近づけば、「保障機能つき投資信託」という分類になることだろう(注:実際にはこういう呼び方はしません)。
 
 変額保険はうまく活用すれば、資産運用には有効な手段となる。ところが「保険」という名前がついていることによって、損をしている。「生命保険は資産運用に向いていない」という世間の常識が、素直に物事を見ることを妨げてしまっている。もったいないなあと感じる。保険と投資は別々に考えるというのが、世間では常識のようだが、必ずしもそうではない。生命保険も投資信託も金融商品という大きなカテゴリーではさしたる違いはない(資金を金融機関預け、一定の条件の下に見返りを受けるという意味で)。

 iPhoneの立場からすれば、携帯電話に分類されるのは不本意だと思う。それでも実際に使ったユーザーからの支持を得て、iPhoneは爆発的に売れている。やぱり使ってみた人にはわかるのだ。私のお客様の中には、変額保険フリークといえるような人もいる。世間の風に負けずに、多くの人をunlearn(常識の呪縛をとくこと)していこう。柔軟な脳を持つ人なら、私の言いたいこと(ちょっと変わっている?)こともきっと伝わるはずだから。



2010年4月20日 (火)

土管を制するものは、世界を制す?

 生命保険の営業を始めたばかりの頃、大学の同級生(Aさん)に電話をしたら「どうぞ、どうぞ」という反応が返ってきた。保険の話は親しい間柄でも多少は躊躇するものなので、「おやっ?」という感じがした。その理由がよくわからないまま、実際に会ってひととおり保険の話をすると、「実は…」と彼のほうから切り出してきた。彼は副業としてネットワークビジネスとやっていたのだ。よくある勧誘のパターンで、洗剤やら健康食品を扱うミーティングに参加しないかと誘われたりしたが、どこか共感できないものを感じたので、結局それっきりになってしまった。
 それからしばらくして、自作の年金のガイドブックを請求してもらうために、マンションにチラシを配っていたところ、ぜひ話を聞きたいという人が現れた。「ずいぶん積極的な人だな」と思いつつ、ご自宅にうかがうと、やはりネットワークビジネスとやっているとのこと。こちらはご夫婦で専業に取り組んでおり、かなりの収入があるとのことだった。ご主人(Bさん)は業界では有名な方らしく、アメリカの創業者に直接話を聞きにいくなど、仕事としてきちんと取り組んでおられた。Bさんから話を聞いてみると、同じビジネスとはいえ、Aさんから聞いた話とはだいぶ視点が違うなと感じた。
 どこが違うのか? Aさんは「モノを売る」ということにフォーカスしていたのに対して、Bさんは「権利を売る」ということを強調していた。詳しいしくみは忘れてしまったが、そのネットワークビジネスではお客様のグループが一定の規模以上になると、権利収入のようなものが発生するとのことだった。ライセンス料とか印税の一種だろう。その権利収入を獲得するために、何をすればよいのかというのが、Bさんの話の核心だった。商品の話はほとんどしなかった。
 Aさんの話ではなかなかピンとこなかったが、Bさんの話には共感できる部分が多かった。そのころの私はまだ本を出版する前で、「自分がいないところでも収入が発生する方法はないだろうか」と考えているところだった。保険の場合は対面販売が原則なので、自分がいる場でしか収入が発生しない。その状況を何とか改善したいと思っていた頃に、Bさんと出逢ったことになる。金融に関する分野で権利収入のようなものを得たいと考えていたので、ネットワークビジネスに参加することはなかったが、考え方はおおいに参考になった。

 Bさんの話を聞きながら感じたことは、いまでもよく覚えている。それは、「この人は、土管を引こうとしているんだな」ということだ。土管というのは、わかりにくいたとえかも知れない。わかりやすくいうと、「人と人とを結びつけるネットワーク」ということになるだろう。
 土管の中は、水が流れる。水道会社は土管を引き、その中に水を流すことによって、収益を得る。それは土管を引くことにかけたコストに対する対価である。同様に、電気会社は電線を通して電気を供給することにより、ガス会社はガス管を通してガスを供給することによって収益を得る。水道会社、電気会社、ガス会社は、水道管、電線、ガス管というインフラを提供したことにより、継続的な収益を得ることが可能になる。「土管」はあくまでたとえなので、見えないものでももちろん構わない。携帯電話の電波や、ウインドウズのOSなどの「土管」の一種といえるだろう。
 「土管」のビジネスモデルは強力なものだ。電気、水道、ガスなどは、これからもしばらくの間は価値を持ち続けることだろう。しかしすべての土管が未来永劫価値があるかというと、必ずしもそうではない。有線の電話網は以前は収益性の高い土管だったが、現在は無線に取って代わられようとしている。WindowsのOSも強力なものだったが、クラウドソーシングの波に飲み込まれようとしている。

 では、どのようにすれば土管はその力を継続的に発揮できるのだろうか?

 「共同溝」はひとつの考え方だ。電気・水道・ガス・電話を一緒に敷設してしまう。時代が変わって、新しいサービスが生まれたときには、取り替えるだけでよいので、わざわざ共同溝を掘り返す必要もない。共同溝を独占的に保有する会社がもし存在したとしたら(たぶんそういう会社はないだろうけど)、長期にわたって安定した収益を得ることができるだろう。

 ネットワークビジネスのような形態は、この「共同溝」を作るという発想で考えるとわかりやすい。ネットワークビジネスで扱っている商品は、食品や日用品が多い。消費頻度が高いことがその理由だが、他にも扱える商品はあるはず。なぜならネットワークビジネスでは、人と人の間に「土管」が敷設されているからだ。その「土管」が信頼によって結び付けられているとしたら、より強固なものだ。その信頼をベースにすれば、食品や日用品に限らず、自動車や住宅、葬式も販売することが可能となる。土管の中を水が流れていくように、人と人とのネットワークの中を、商品やサービスが流れていく。このように考えると、土管を持つことの重要性は非常に大きい。

 今回はネットワークビジネスをひとつの例としてあげたが、ネットワークビジネスを特別視しているわけではない。百貨店、スーパー、コンビニなど、従来型の小売業でもお客様との間に、土管をつなぐことができるなら、いろいろな可能性が考えられる。もちろん私の専門分野である金融業界にもあてはまる。信頼関係があれば、保険に限らず、さまざまな商品・サービスを扱うことができるし、そのほうがお客様にとっても満足度が高くなる(いろいろな会社や人をチェックしなくてよいから)。

 B to Cのビジネスでは、「土管」の存在に気づくか気づかないかが大きな差を生む。いまのところ、多くの企業はまだ気づいていはいないようだ。どんな業種であれ、そこに気づいたものが大きなアドバンテージを得ることは間違いない。お客様の共感を勝ち得ること、そしてその後に流せる商品とサービスを持つこと、この点を考えながら進んでいきたい。

2010年4月19日 (月)

リスクを取らなきゃいけないのは、わかっているけれど・・・

イビチャ・オシム氏の『考えよ!』(角川Oneテーマ21)を読む。
 元サッカー日本代表監督のイビチヤ・オシム氏が、ワールドカップ南アフリカ大会を前に、日本のサッカー界に送るために書いた著作。サッカーは専門ではないが、オシム氏には少なからず興味を惹かれてきた。彼ほど有名な指導者がなぜ日本の、しかも千葉県の片田舎(失礼)のサッカークラブの監督になったのかが不思議だった。オシム氏がユーゴスラビア代表として東京オリンピックに参加したときに、当時の日本人の優しさに触れたことが、日本で監督をする決断に影響したともいわれている。そして最も興味を惹かれたのは、日本代表の監督に就任したときに、日本代表を「日本化」するという彼の発言だった。
 日本代表の「日本化」? 常識的に考えると不思議な発言だ。日本代表は日本そのものであり、日本化などといわれる筋合いはない。しかし彼の発言を聞いて、この人はよくわかっているなと感じた。「日本化」とは、日本という環境の持つよさを活かして、オリジナル化せよという言葉に受け取った。海外のサッカーの単純なコピーではなく、日本の長所短所を踏まえた上で、他国とは違う戦い方をせよということなのだろう。
 野球に関して、日本はbaseballを「日本化」することに成功している。WBCのような世界大会で、2連覇したことについては高い評価がされて当然だと思う。USAや中南米諸国とは違うやりかたで、baseballの戦い方をオリジナルとして構成できた結果である。しかしそれ以外の球技については、まだ「日本化」に成功した例は少ない。バレーボールは、一時期ユニークな戦法で世界のトップに立つことができたが、その方法論は他国に吸収されてしまった。時間差攻撃などのアイディアは面白かったが、日本以外のところにも採用できるノウハウだったため、体格的に有利なブラジルやイタリアが有利に立つことになる。
 「日本化」とは、単純に新しいノウハウを発明することとは違う。日本人ないしは日本という環境の特性を活かして、他の国にはマネしようとしてもマネのできない体系を作り上げることを意味しているのだろう。オシム氏の「日本化」という言葉を、私はそのように理解した。
 オシム氏のもとで、「日本化」がどのように進んでいくのかと期待していた(サッカーファンでもないのに)だけに、2007年11月にオシム氏は脳梗塞で倒れ、代表監督の座から退くことになったのは残念だった。後継の岡田監督がよい悪いということではなく、オシム氏のもとでどのような日本代表が生まれるのかを見てみたかった。病気はどうすることもできないが、日本のサッカー界にとって不幸だったことは間違いない。

 本書では、サッカーワールドカップに関する戦略や予測などにも紙面が多く割かれている。ただ、申し訳ないが、私の興味をそそる部分ではない(サッカーのことはよくわからない)。興味があるのは、オシム氏のリスクに対する考え方だ。本書の副題にも、「なぜ日本人はリスクを冒さないか?」とある。

 《「リスクを負わない者は勝利を手にすることができない」が私の原則論である。リスクとは、負けることによって認識すべきものではない。だが、日本人はそのようにして生きているように思える。 誰もが敗戦を恐れすぎているのだ》(144ページ)

《しかし、何かに勝つためには、リスクや犠牲を負わなければならないのだ。》(同上)

《今回のワールドカップのグループEを見るならば、日本が、カメルーン、オランダ、デンマークという3つのチームに負けることは、たいした痛手ではない。なにも失うものはない。世界の基準から見れば予想通りの結果に過ぎない。負けても現在と同じ状況に留まるだけのことである。しかし、もしそこで勝利を得られたならば、それは「自信」というとてつもなく大きな財産となるのだ。まず負けないためにどうすべきかではなく、勝つためにはどうするべきかを考えようではないか。》(145ページ)

《結局、サッカーであろうと人生の他の分野であろうと、誰もが多くのリスクは負わないのだ。現在では、誰も必要以上のリスクは負わない。そこが私にとって日本人の理解し難い部分である。なにしろ銀行家でさえリスクを負わないのだから。》(162ページ)

 おっしゃることに、まったく異論はない。リスクを取る人がいまの日本にとって、最大の問題であると私も常々感じている。ソニー生命の安藤会長(元ソニー社長)にも、そのことを申し上げたが、うんうんと頷いておられた。心あることは誰もが感じていることなのだと思う。

 では、どうしたらリスクを取ることができるのだろう?本書にはリスクの取り方はかかれてはいないし、オシム氏もそんなことを書くつもりもないだろう。そもそも「リスクをどのようにして取ればいいのですか?」という質問自体が愚問である。リスクを取りたい人間は、さっさとリスクを取って、そのリスクに見合う成果を手にしてしまえばよいだけのこと。リスクの取り方を誰かから教えてもらおうなんて考え自体が、そもそもおかしいのだとは思う。

 とはいっても、リスクを取らないという事態が日本でここまで広まっていると、そうのんきなことはいっていられない。一部の人限定で構わないので、リスクを取りたい人に、リスクをとってもらえるような環境を整備することも考えないといけない。
 実をいうと、日本はとてもリスクを取りやすい環境になっている。いろんな意味でのセーフティネットはあるので、失敗しても食うに困る事態は避けられる。問題は社会のしくみではなく、リスクを取ったことに対するリターンを実感できないことにあるのではないだろうか。

 昔、中学生のバスケットボール部を教えていたときのこと。自分の子どもの活躍を見ようと応援に来る親御さんの応援振りを観察していると、シュートを決めれば喜び、ミスをすれば子どもを責めていることがほとんどだった。ごくごく普通の光景だと思う。でも、これはいまの日本の縮図のような気がする。結果がよければもてはやされ、失敗をすると責められる。大人でもこどもでも、失敗したくてする人はいない。チャレンジしても、多くの場合は報われない。でもチャレンジしなければ、成功することもない。そうであれば、チャレンジする姿勢、リスクを取ろうとする姿勢を高く評価するべきなのではないだろうか。

 自分が中学生のコーチをしているとき、わざわざタイムアウトを取って、リスクを取った選手のことをほめた(本当はあまりやっちゃいけないんだけど)。ひとつのプレイを見ただけで、彼がどのような準備をしてきたかがわかったからだ。そのほめ言葉を聞いた選手(森君)は、とてもよい顔をしていた。「この人は(私のこと)、自分のやろうとしたことをわかってくれている」 森君はたぶんそう思ってくれたんじゃないだろうか。リスクを取ったことに対する「ねぎらい」、それこそがリスクを取る日本人を増やすことにつながると思う。結果がよくなくても、リスクを取ろうとした人をねぎらう。そんな行動をつみかさねていきたい。

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