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2010年7月 1日 (木)

プライベートバンクが日本で普及しない理由

欧州系の銀行で、プライベートバンクのサービスを日本で展開した経験のあるSさんとお話した。その銀行では60億円かけて日本市場に参入したものの、思ったようなニーズがなく、ほどなく撤退してしまったとのことだった。

「日本にプライベートバンクのニーズがないのはなぜですか?」とたずねると、Sさんはその理由をこう説明してくれた。

「ヨーロッパのプライベートバンクが発達したのは、ヨーロッパに戦争が多かったからです。大金持ちは自分たちの資産を守るために、国に頼らない方法を探していました。そこで、19世紀後半にスイスが小国の利を活かして、プライベートバンクのサービスが発達しました。このサービスが受け入れられる前提として、ヨーロッパにおける戦争の歴史があったのです。」

「日本の場合、外国と大きな戦争を経験したことはあまりありません。第二次世界大戦を除けば、元寇ぐらいのものです。第二次世界大戦は日本にとって大きなダメージを残しましたが、経験としては一回だけです。そして、そのときに日本の社会がリセットされたことが、プライベートバンクが日本で受け入れられない原因になっています。」

「ヨーロッパの金持ちは何世代にもわたって、自分たちの資産を引き継いできました。しかし日本は戦争によって大金持ちがいなくなってしまいました。戦後に大金持ちが出てきましたが、戦後65年では、せいぜい二代目、三代目というところです。これでは資産を引き継ぐという考え方は持てないのです。」

Sさんの話を聞くまでは、日本人の金融リテラシーが低いのが、プライベートバンクが普及しない原因だと考えていた。けれども、Sさんの話を聞いて、プライベートバンク普及の裏側に、戦争の歴史があることがわかった。プライベートバンクが日本で普及しなかったということは、大きな戦争を経験しなかったということであり、日本というは幸せな国だったことに気づかされた。

Sさんの話は続く。
「国が破綻する原因はふたつあります。ひとつは戦争、もうひとつはお金です。」

日本は戦争によって国が破綻するという経験をしている。しかしその後急速な経済発展をとげたため、国の破綻という貴重な経験を引き継ぐ人が少ない。また、お金で破綻した経験はない。過去の経験をもとに、これからの未来を考えてはいけないようだ。ギリシャやスペインが直面しているような財政危機と、日本がまったく無縁だとは言い切れない。

Sさんの説明を聞いて、プライベートバンクに関する、縦(歴史)と横(海外)の関係がよくわかった。日本で生活していると、国は空気のように思えるけど、それは大きな勘違い。国という制度自体も人間がつくったものである以上、不変のものではない。日本という国が破綻してしまわないように一国民としてがんばるのが筋だが、国が頼りにならないときに具体的にどうするかをいまから考えておいても損はない。

民主党の無駄遣い政策への懸念から、「資産は海外へ」の見出しで、外貨預金や外国資産の投資信託を買おうと主張する記事も見かける(少し前の週刊朝日など)。でも、少し頭を使えばわかるけど、ドルでもユーロでも日本にある資産は、国が破綻したときには封鎖されるはず。本気で資産防衛をはかるなら、海外に持っていかないと。こういうことをそろそろ真剣に考えなければならなくなってきた。寂しいけど、だからといって国を全面的に信じるわけにもいかない。しばらくは、どんな状況にでも対応できるようにしておいたほうが賢いようだ。

「未知のことに驚かされるより、むしろこちらから積極的に驚いたほうがよい」 という趣旨のことを、内田樹さんは語っている(プレジデント2010年7月19日号)。至言だと思う。国債デフォルトにびくびくして、悪いことを考えないようにするより、むしろ最悪の状況をシミュレーションしておこう。たぶん現実はそれよりもだいぶよいはずなのだから。

2010年6月24日 (木)

あなたの保険、幸せ実現の足を引っ張ってませんか?

いつも笑顔のファイナンシャル・プランナー、山口です。

先日、某生命保険会社主催のセミナーに参加しました。テーマは「介護」。介護に携わるケアマネージャーさんや社会保険労務士さんのお話に続き、営業部長のAさんから以下のような発言がありました。

「ビジネスチャンスはお客様に必要なものを売るところにあります。お客さんが寝たきりになったときに保険金をお渡しできるように、当社の介護保険を積極的に販売しましょう。それがお客様の幸せにつながります。」

Aさんに悪気はないのでしょうが、私は力が抜けました(営業部長なので販売に力を入れようというのはまっとうなお話です)。部長さんの頭の中を想像してみると、「寝たきりになる→お金が必要→だから民間の介護保険に加入しよう」という論理のようです。一見すると、それほどおかしなところはないように思えます。お金が足りない分は保険で補うという考え方は自然なものですから。しかし、実際はそれほど単純なものではありません。Aさんはたぶん介護のことを真剣に考えたことがないのだと思います。

Aさんの話の中に、「お客様の幸せ」という言葉が出てきました。では、「幸せ」とは何でしょうか?もし自分や家族が寝たきりになってしまったときに、何を「幸せ」と呼ぶのでしょうか。Aさんは、「保険からお金を受け取ること=幸せ」と考えているようです。たしかにお金はもらえたほうがいいと思います。ただ、保険金によって経済的には満たされても体が自由にならないなら、幸せとはいえない気がするのですが。

本当に幸せと呼べるのは、体が少し不自由でも、使える部分を有効に活用して、人や機器の助けを借りながら、自分の力で動けることです(残存能力の活用といいます)。多少苦しくても早い段階でリハビリをすれば、ずっと寝たきりの状態になるという確率はかなり低くなるという調査結果もあります(デンマークでは日本のような寝たきりの人はいないそうです)。人間にとっては、自分の体を自分の意思で動かすことにまさる幸せはありません。

仮に、幸せとは「体が不自由になっても、残存能力を活用して自分の力で動けること」と定義しましょう。すると、保険の役割が自分たちの幸せと大きな矛盾をはらんでいることに気づきます。

民間の介護保険では、保険金の支払い条件が「公的介護保険」と連動するようになっているものが一般的です。たとえばセミナーを主催した保険会社の保険では、「要介護2以上」の状態になったときに保険金が支払われます(参考:「要介護2」の身体状態のめやす:食事や排泄に何らかの介助を必要とすることがある。立ち上がりや片足での立位保持、歩行などに何らかの支えが必要。衣服の着脱は何とかできる。物忘れや直前の行動の理解の一部に低下がみられることがある)

いったん「要介護2」の認定を受けた人がリハビリをがんばった結果、「要介護1」の認定を受けることになると、保険会社からの保険金は受け取れなくなります。リハビリによって自力で動けるようになることが本当は幸せなのに、保険金はもらえなくなるのです。常識的に考えると、厳しいリハビリをがんばった「ごほうび」がもらえてもよさそうですが、「ごほうび」どころか、厳しいペナルティを与えられてしまうというわけです。皮肉なことですね。

このように、本当の幸せと(民間の)介護保険は、矛盾をはらんだ関係にあります。自力で動けるようにがんばるとお金がもらえなくなるなら、下手にがんばるよりお金をもらったほうがよいと考える人も出てくる人もいることでしょう。これは保険のしくみとして、本末転倒です。保険は幸せを応援するためのものなのに、このケースでは逆に足を引っ張る存在になっています。幸せと保険が同じ方向を向いていないことは、大きな問題です。

このようなケースは、介護保険だけではありません。入院を保障する「医療保険」にも同じようなことがいえます。一般的な医療保険は、病院に入院した日数によって保険金が支払われます。治療を受けた場所が自宅なら、病院と同じレベルの治療をしてもお金はもらえません。たとえば末期がんの場合、病院で治療を受ければ保険金をもらうことはでき
ますが、在宅で治療を行うともらえません。でも、人によっては住み慣れた自宅で治療を望む人も多いはずです。そんなときにいまの医療保険は助けてくれません。

1970年は77%の人が自宅で最期を迎えました。2005年に自宅で最後を迎えた人は、およそ12%です。病院で亡くなる人が増えたのは、それほど昔のことではありません。だから、これからどうなるかだって本当のところはわからないのです。在宅医療に力をいれるお医者さんも少しずつ増えています。過剰な延命措置を施されるより、貴重な時間を家族と一
緒にすごしたいという人も増えてくるはずです(私もそういう考えです)。あなたがもし在宅治療を希望するなら、現在の医療保険をあてにするわけにはいきません。

たぶん、こんな考え方は初めて聞いたことでしょう。保険を扱っている私のような人間が、自分の扱う商品に疑問をぶつけるというのは、営業的にはよいことではないのでしょう。しかし、商品を売る前に、本当のお客様の幸せに貢献することを優先したいというのが私の気持ちです。寝たきりのことについては相当考えました。人生は、A部長さんの話のように、単純には割り切れません。もちろん民間の介護保険が役立つ場面もあるはずなので、加入することを妨げるつもりはありません。しかし、本当に苦しい場面に役に立つのは何なのかをじっくり考えてみることも必要だと思います。「病気や介護にお金がかかる→だから保険に入ろう」というのは、保険会社の理屈にどっぷりはまってしまっていますよ(笑)。一種の「脅し」ですからね。

では、保険ではない方法にはどのようなものがあるのでしょうか?

それは「資産」です。すぐに現金に交換できるものがよいでしょう。保険の場合は、「要介護2」など一定の条件を満たさないと、お金をもらうことができせんが、資産の場合はそのような制約はありません。自分が必要なときにお金を使えばよいのです。リハビリのために手すりをつけたり、器具が必要なら必要に応じて購入したりすることができます。自分で体を動かすという本当の幸せを、これまでに積み上げた資産が応援してくれるのです。これなら矛盾はありません。

資産の一部は「終身年金」のように、一生涯受け取れるものにしておきます。国民年金や厚生年金などの公的年金も終身年金なので、自分の資産からもらう終身年金と公的年金からもらう終身年金で十分な備えを確保しておきたいものです。これなら健康なときはもちろん、病気のときや介護のときにもお金を受け取ることができます。もしアパートを経営している人であれば、家賃収入が「終身年金」の代わりになります。

若い時期は、資産がそれほど多くないので、保険は大いに役立ちます。ただ、年齢を重ね、資産が増えてくると、保険よりも資産のほうが使いやすいのです。ライフプランを考えるときは、積み立て(資産形成)だけ、保険だけというように偏るのではなく、資産形成と保険をバランスよく考えるということが必要です。どんなことにもいえますが、ひとつひとつの部分に注目するだけでなく、全体像を見渡すことも大切にしたいですね。

あなたにとっての「本当の幸せ」とは何でしょうか。ぜひ考えるきっかけにしてください。

2010年5月14日 (金)

年金にも長所はある(はず)【その3】

 これまで年金制度について、世間で話題になっている問題は何か、そしてその問題についてどのように考えたらよいのかを述べてきました(注:ここでいう年金制度とはいわゆる公的年金制度のことで、私的年金は含みません)。支払額と受取額を比較すると年金額は不公平にみえるが、その一方で社会を安定させる役割を持っているので、一方的に不公平と断じてしまうのはよくないというのが私の意見です。

 では年金制度を損得で考えないとして、どのようにこの制度とつき合っていけばよいのでしょうか? 最初から「年金=悪」と考えるのではなく、年金制度をありのままにみると、他にはない長所も見えてきます。今回は、公的年金制度の持つ長所のうち、「一生受け取れる」という点に絞って話を進めることにしましょう。

 さて、年金というのはいつまで受け取ることができるのでしょうか? 公的年金の場合は、生きている限りずっと受け取ることができます。このようなタイプの年金を「終身年金」と呼びます。それに対して、生死にかかわらず一定期間(たとえば10年間)年金が受け取れるタイプの年金が、「確定年金」です。では「終身年金」と「確定年金」のどちらが有利なのでしょうか。
 「終身年金」は生きている間ずっと年金を受け取れるから、期間が決まっている「確定年金」よりよさそうにみえます。数字で確認してみましょう(本来は緻密に計算する必要がありますが、私は専門家ではないので、ざっくりした計算になっていることをお断りします)。

(例1) 65歳のAさん(男性)は、1000万円の資金を年金で受け取りたいと考えています(この資金は公的年金とは別)。「10年確定年金」で受け取る場合、「終身年金」で受け取る場合、それぞれの年金額はいくらか(運用金利は年1%。年金は1年の始まり時に一括で受け取るものとする)。

 実際に計算すると、10年確定年金の年金額は 105.5万円、終身年金の年金額は72.1万円となります(終身年金は65歳の平均余命が15年として計算)。確定年金の合計受取額は、105.5万円×10年=1055万円なので、終身年金で同じ額を受け取るためには、Aさんは15年は生きなければなりません(72.1万円×15年=1081.5万円>1055万円)。つまりAさんが80歳まで生きれば「終身年金」が有利、80歳まで生きられなければ「確定年金」が有利ということです。

 数字の上では、このように有利不利がはっきりします。平均余命(Aさんの場合は15年)より長く生きられるかどうかが分岐点です。ただ、自分が何歳まで生きるかは誰にもわからないし、実際にはそれほど単純に割り切れないものです。次の例でそのことを確認してみましょう。

(例2) (例1)に登場したAさんは、10年間の確定年金を選択しました。その後大きな病気をすることなく7年が過ぎ、Aさんは72歳になりました。仕事をしていないので、収入は公的年金と現在受け取っている年金だけです。貯金が他に1000万円ありますが、3年後には確定年金もなくなるので、心配しています。

 Aさんは3年後どうしているでしょうか? たぶん3年後より前の時点で、お金を使わないようにするはずです(すでにやっているかも知れません)。貯金を取り崩さなくてはいけなくなると不安だからです。公的年金だけで生活し、貯金には手をつけないような生活になるはずです。これではせっかく資産があっても、使えないまま一生を終えることになりそうですね。

 低金利でお金が増えないのであれば、お金を使いたくないいう気持ちはわかります。多くの高齢者がお金を持ったまま使わないのは、減ってしまうことに対する不安があるからなのでしょう。でも、貯金がいくらあっても使えないのは、もったいないと思いませんか。

 こんなとき「終身年金」であれば、気分がだいぶ違います。生きている間は同じ金額を受け取ることができるので、その範囲内で生活すればよいからです。100歳まで長生きしても大丈夫です。少しは貯金も残しておかないといけませんが、少しぐらい使っても年金があるので、それほど心配はいらないはずです。

 公的年金は「終身年金」なので、その部分に関しては、長生きしたときの心配をする必要はありません。これは大きなメリットです。年金は損だなんていわないで、健康に気をつけて長生きを喜ぶようにしたらどうでしょうか。そのほうが精神的にもよいですし。したがって、公的年金で足りない金額についても、「終身年金」で準備するよう心がけます。貯金としておいておくよりも、一生続く「お金の流れ」にするわけです。かっこよくいうと、「ストックからフローへ」ということですね。ただ、いまの日本は低金利なので、若いときから終身年金にこだわる必要はありません。若いうちは運用リスクをとっておいて、歳をとったら終身年金に変更するというパターンがベストです。その方法については、機会を改めて紹介したいと思います(いますぐ知りたいという人は、拙書『預金、やめた。』を読んでください)。

 公的年金にもよいところはあります。それは素直に認めてあげましょう。同じように限界はあります。国の制度だから当然です。社会主義国ではないので、公的年金だけで国民生活すべてをまかなうわけにはいきません。足りないところは自分たちで補うことになりますが、そのときも公的年金の考え方が参考になります。公的年金が終身年金だから、自分も終身年金を確保しようというのは自然な考え方です(注:自助努力の部分は、終身年金以外にも、アパート経営などの選択肢もあります)。

 年金制度を批判している時間があったら、ぜひあなたができることに取り組んでください。そのほうが時間の使い方としても、有効だと思いますよ。


 

 



 
 
 
 

2010年5月10日 (月)

年金にも長所はある(はず)【その2】

 年金制度について述べるとき必ず話題になるのが、「払う額ともらう額の比較」だ。年齢が若いほど、支払う保険料のほうが受け取る年金額より多くなって、不公平だといわれる。現在20歳の男性が60歳まで、ずっと年収500万円だとした場合、84歳まで長生きしないと、支払保険料<年金額にならない(金利はまったく考慮しない)。男性の平均寿命は79歳だから、ほとんどの人は 支払保険料>年金額 となるはずだ。その一方で、いま年金を受け取っている人たちは、たいした保険料を支払っていない。

 この点だけを見ると、誰だって年金制度は不公平だと思う。高齢者の人たちでも、「これからの若い人は大変だ」と考えている人たちはたくさんいる。たしかに公的年金という制度だけをとってみると不公平な気がする。けれども違う視点でみると、必ずしもそうとはいえない。ひとつ例を挙げてみよう。それは公的年金制度があることにより、中年世代は親の経済的な面倒をみなくてすんでいる点だ。年金制度がなければ、中年世代は保険料の負担はなくなるが、親世代の面倒をある程度はみないといけなくなる。両親2人で付き20万円の分の面倒をみるとして、子どもが2人だったら、中年世代の家庭で月10万円の負担をしなくてはならなくなる。これは結構大変だ。親の世話が終わったあとは、自分たちで老後の備えをするか、子どもたちに養ってもらう必要がある。

 親がいない人たちもいるわけで、いろいろなケースがあることは承知しているが、公的年金制度をもう広い目で眺めてみると、必ずしも不公平な制度とはいえない。全体的にみれば、若い世代でも公的年金の恩恵を受けていることは認めたほうがよい。

 年金制度では、支払額と受取額がはっきりとわかるので、両者を比較する議論になりがちである。ただ確認しておくべきことは、年金の最大の目的は社会全体を安定させることであり、ひとりひとりの帳尻を合わせることは優先順位としては低くなる。極端に支払だけが多くなるというようなことでなければ、支払額>受取額 になっても特に問題はないのではなかろうか(計算のいかさまはやめて欲しいが)。税金の見返りが直接どのくらいの恩恵として返ってきているのかはわからないが、税金をなくして警察や消防がなくなるというのは困るはず。同様に公的年金制度をやめて、社会が不安定になるというは誰も望まないと思う。

 「年金は損だ」というような物言いは、もうやめたほうがいいと思う。年金制度を批判することは自由でも、すぐに年金制度をなくしてしまうことはできない(高齢者の数も増え続けている)。日本全体というマクロの問題が解決できなくても、個人の問題が解決すればそれでよいと割り切ったほうがよい。これから年金を受け取る世代は、いまの高齢者がもらっている以上の年金額を受け取ることはない。かといって、年金額がゼロになることもない(たぶん)。その現実のなかで、個人レベルで何ができるのか、それを一生懸命考えたほうが、時間の使い方をしてはよっぽど賢いと思うのだが。
 
 マスコミにあおられて、「年金=損」を合唱していると、若い世代は年金に対する不信感を増してしまう。そうなると今の中年世代が年金を受け取るとき、いまの若い世代は「年寄りはもう知らない」という可能性もある。中年世代は「年金=損」なんて言っちゃいけませんよ。「年金はありがたいから、大切にしようね」とちゃんと教えないと。自分で自分の首をしめちゃいけないでしょ。

 

 

2010年5月 7日 (金)

年金制度にも長所はある(はず) 【その1】

 今年の夏には参議院選挙がある。選挙では「年金」が必ず議題になる(注:ここでいう年金は国民年金や厚生年金などの公的年金制度のこと)。しかし選挙後に何が変わったかといわれると、「う~ん」とうなってしまう。何も変わらないまま、選挙前になるとまたマスコミは年金についてネガティブな報道をする。国民の側にも「年金制度=悪」という思考回路ができてしまったようだ(いま年金を受け取っている人は除く)。

 私個人は日本年金機構(旧社会保険庁)に何の義理もないので、年金制度を擁護する必要はまったくない。でも、このような一方的な議論には疑問を感じる。こういうときはオタク精神を発揮するに限る。悪者の年金制度にもよいところはないか探してみようではないか。どんな人間でも何か長所があるように、年金制度にも長所はあるはず。最初から悪いものだと考えずに、素直な目で年金制度を見つめてみれば、短所とともに長所も発見できるだろう。批判からは何も生まれない。まずはじっくり現状を見つめてみることにしよう。

 考える順番として、①→②→③ としてみた。

① 年金が問題だといわれているが、具体的な問題とはどのようなことか?
② ①で問題とされることは、私たちの生活とどのような関係があるのか?
③ 私たちが行動するにあたって、年金をどのように活用すればよいのか?

 今回は①について考える。いわゆる「年金問題」は、次の4つにまとめることができる。

(a) 年金の掛け金が無駄遣いされている問題(公的資金流用問題)
(b) 年金制度が複雑なため、将来受け取る金額がよくわからないという問題
(c) 年金記録が欠けているため、年金額が少なくなってしまう問題(年金記録問題)
(d) 若い世代にとっては、支払額>受取額になってしまう問題

 結論からいうと、(a)(b)(c)の3つの問題は、すでに解決されているか、もしくは個別問題ということになる。多くの人にとって広く重要な問題は(d)である。
 
 (a)に関していうと、公的資金流用はたしかに大きな問題だ。細かく挙げるときりがないので、興味がある方はこちらを参考にしてほしい。→ http://bit.ly/cmvBYL もちろん不正流用は許せないことである。ただ、もし不正がなかったとしても、年金の財政問題が解決するわけではない。年金制度の本当の問題は、収支のバランスにあるからだ。この問題をきっかけに、マスコミは国民の年金に対する信感を植え付けることに成功した。その反面で、より大きな問題に気づきにくくなったということも事実である。実際、江角マキコが国民年金のポスターに起用されたのに、保険料が不払いだったなんてことでもめている間に、年金の重要法案が議論もなく通過してしまったこともある(2004年)。

 (b)については、平成21年度から「ねんきん定期便」の制度ができたことにより、ほぼ問題は解決されている。従来は59歳になっても受け取る年金額がわからないなんて人が多かった。笑い話ではない。いまから5年前、私が年金ガイドブックなるものを配布していた頃、いちばん問い合わせが多かったのは、50台後半の人たちだった。いまは「ねんきん定期便」により、将来の年金額もある程度わかるので、このようなことはない。年金制度の改革はなかなか進まないが、「ねんきん定期便」が導入されたことはよかったと評価する(年金記録問題を隠そうとしたのではとか、異常に経費がかかったのではとかいう点は、しっくりこないけれど)。
 
 (c)の年金記録問題もマスコミで大きく取り上げられた。たしかに巻き込まれた人にとっては死活問題だ。コンピュータ化されていないときの記録だから、確認しようとしてもほとんど無理だと思う。これは時間がかかっても個別に対応するということしかない。ただこれも(a)の場合と同じく、年金制度の根本的な問題というわけではない。お役人の怠慢や不正にはあきれるばかりだが、年金制度がまたまたマスコミの格好の餌食になってしまった感がある。

 さて残るは(d)の問題だ。現在年金を受け取っている高齢者世代は、掛け金の何倍もの年金を受け取ることができるのに対して、これから年金を受け取る世代(特に中年以降)は、支払額が受取額を上回るケースが多くなる。このことから「年金は損だ」というイメージが生まれ、国民年金保険料を支払わない人が多くなっている(注:厚生年金は給与天引きなので、支払わないわけにはいかない)。そして、このことが年金制度の崩壊につながるのではないかと、マスコミはまた不安をあおる。

 国民年金保険料を支払わない人が多くなったからといって、年金財政に大きな影響はない(参考文献:細野真宏『「未納が増えると年金が破綻する」って誰が言った?』)。それでも、実際に支払額のほうが受取額を上回ってしまう世代がいることは事実であり、時間の経過とともに多数派となる。厚生労働省や旧社会保険庁は、厚生年金保険料のうち自己負担分の部分(負担すべき保険料の2分の1)だけを支払額として受取額と比較し、受け取り学のほうが多くなりますよという姑息な説明をするが、誰もそんな説明にはだまされない。

 この不公平感がある限り、年金制度に対する不信感は払拭されない。だから、きちんと向き合う必要がある。この問題をどのように取り扱えばよいのだろうか、それは【その2】で考えてみることにしたい。

2010年4月27日 (火)

多数決はフィクションである

 多数決はフィクションである。

 ずっと前からそう思っている。小学校の頃の学級会議。クラスで決めなきゃいけないことがあると、すぐ「多数決!」という話になった。多数の意見が全体の意見ということに、私たちは特に深い疑問を抱かずに育ってきた。
 でも、あるとき多数決って変だなと感じるようになった。学級会議ではクラス全体の意見というより、なんとなく声の大きな人の意見が通っていた。選挙では一人一票による多数決という方式が取られているが、大前研一氏の投じる一票と、私の投じる一票が同じ価値だとはとうてい思えない。感覚的には、大前さんには百万票ぐらいのあげてもよいくらいだ。

 現代の選挙は、有権者が平等であるという大原則からスタートする。20歳の若者も、人生経験豊富な80歳の高齢者も、一票の価値は同じである。人類は時間をかけて、現在の民主主義にたどりついたわけで、そのしかけは尊重したい。では、一人一票の原則、多数決の原則が成立するためには、どのような前提条件が必要なのだろうか。国会議員を選ぶということも多数決の一種であるので、選挙について考えてみた。選挙の場合、次の2点が満たされている必要があるだろう。

1.有権者ひとりひとりが、みな同じレベルの(まったく同じではなくても)知識と判断力を持っていると認めること。
2.少数派は多数派に従うことになるので(たとえ1票差であっても)、少数意見も含めて議論を尽くすために、十分な時間を確保すること。

 残念なことに、いまの日本の選挙ではどちらの条件も成立していない。有権者の知識や判断力はあまりにもバラバラだ。また公職選挙法では2週間しか選挙期間がなく、誰がどんな主張をしているのかがよくわからない(街頭演説はうるさいだけだし、宣伝カーは名前の連呼)。

 完璧な制度というものははなく、多数決もその例外ではない。問題は不完全だからといって、多数決をすぐに否定するのではなく、なぜ多数決がいまの民主主義の根幹になっているのかを理解することだろう。
 多数決というのは、全員が平等という美しい理念に基づく方法だが、その一方で「数の横暴」にもつながりやすい。多数決という方法を機能させるためには、「自分の意見をきちんと持つこと」「多様な意見を尊重すること」といった訓練を時間をかけて受ける必要がある。これは運転免許をとるよりも、ずっと大切なことではないだろうか。

 多数決よりもすぐれた方法は、いまのところ見つかっているとはいえない。株式会社のしくみでは、たとえ一人であっても、多数の株式を持つ大株主が会社を動かすことができる。このようなしくみを応用することは考えられてもよい。たとえば私が賢人とみなす人(たとえば大前研一氏)に、自分の投票権を委託するというようなかたちだ。大前氏が100万票を集めたら、その100万票を彼の意思で投票する。このようなやり方は危険も伴うが、判断力の高い人が投票を行うという利点もある。

 政治の世界でも、単純多数決がこのまま続くという保証はない。代議員制だって大きく変わる可能性もある。Web2.0の世界では、家にいながら直接投票することも可能なのだから(個人認証の問題さえクリアすれば)。政策決定についても、商品開発の世界と同じように、クラウドソーシングの力を借りることになるかもしれない。よりよい制度を目指す動きをおそれてはいけない。でもその前に、まずは多数決制度を自分のものにするべきだと私は思う。

2010年4月26日 (月)

金融商品の「食わず嫌い」をなくそう!

 30年以上前、中学生の頃は『週刊少年チャンピオン』を読むのが楽しみだった。『ドカベン』や『ブラックジャック』などといたメインのマンガに加えて、独特の色を出していたのが『マカロニほうれん荘』(鴨川つばめ著)。異色の三人組みがおりなすドタバタ感で、一世を風靡したものだ。先日、御茶ノ水のビレッジバンガードを徘徊していると、『マカロニほうれん荘』の第1巻が売られているのに気づく。懐かしいなと思いながら、さっそく購入&購読。


 昔を思い出しながら、ワクワクしながら読み始めると・・・・・

笑えない。当時のドタバタ感が伝わってこない。ただこっけいなだけ。なぜだろう?

 自分が歳をとったというのは、もちらんひとつの理由だ。でもそれだけじゃない。いまの中学生に『マカロニほうれん荘』を読んでもらっても、やっぱり笑えないと思う。時代背景がわからないからだけじゃなくて、笑いの「質」が違うと思うからだ。

 マンガの世界は日々進歩している。昔笑えたマンガでも、時間がたつと笑いがとれなくなる。文学と一緒で、長く読み続けられるマンガはほんの一握りでしかない。『マカロニほうれん荘』ほどの作品でも(すでに60刷までいっている)例外ではないということだろう。

 この背景には、読者の進歩がある。いちど笑ったネタでは、読者はもう笑わない。作者は次から次へと新しいネタを想像しなければならない。読者と作者の側のせめぎあいによって、より質の高いマンガが生み出されてきた。

 作り手と買い手の間のせめぎあいによって質が高まる、という例はマンガに限らない。食べものは、昔にくらべてずっと美味しくなった。まずいものは消費者が認めてくれないので、どんどん進化していったというわけだ。最近では味覚だけでなく、素材に対するこだわりも重要になっている。なぜ食べ物に関して進歩が早いのかというと、食べ物は口にすればすぐによいか悪いか判断できるからだ。マンガの場合も、読めば面白いか面白くないかはすぐわかる。

 消費頻度の高い商品やサービスの場合、消費者は日常生活を通してどんどん賢くなっていく。提供する側は賢い消費者が満足してくれるように努力しなければならないので、クオリティは自然に上がっていく。消費者、提供者ともに誠実さを忘れなければ、これは好循環であり、理想的なかたちだと思う。

 一方で、商品頻度の低い商品やサービスに関しては、なかなかこのような循環にはなりにくい。消費者は商品やサービスについて接する機会がないので、すぐに判断ができないからだ。食べ物について「うまい」「まずい」を判断するのと、お葬式に使う棺おけをどのグレードにするのかを判断するのを、同じ時間でできる人はいないだろう。判断基準がないときは、どうしても提供者側の言いなりになってしまいがちだ。棺おけの例でいえば、葬儀までの時間は決まっているので、長い間考えているわけにいかなり。だから必要以上に高いものを購入しがちになってしまう。

 棺おけは究極の例だとは思うが、金融商品についても同じようなことがいえる。金融商品のうちでも、投資商品や生命保険のようなものは、特に考える機会が少ない。そのためどうしても金融機関のいいなりになりやすい。消費者として防衛する手段としては、自分で勉強するということに尽きる。しかし、勉強するにはある程度まとまった時間が必要だ。いまのように多くの人の時間が細切れになっていると、なかなかそのような時間はとりにくい。悩ましい問題だ。

 棺おけのことが知りたければ、本を読んだり、経験者にたずねるのが早道だ。金融商品の場合でも同じである。経験者ということであれば、てっとり早いのは金融機関の人にたずねることだ。ただここに大きな問題がある。金融機関の人間が自分たちに都合の悪いことを話すだろうかという問題だ。

 本来であれば、金融機関の人間は誠実に答えるべきだろう。食べ物に関していえば、作り手は毎日消費者の厳しい舌に対応することで、自分たちを磨いてきた。毎日が消費者、提供者にとって学習の場なのだ。金融商品に関しても、賢い消費者を育てることによって、自分を厳しい立場に追い込むことが、進歩につながっていくというのがまっとうな道なのではないだろうか。
 
 ただ、現実には勉強の機会を提供しようという金融機関は非常に少ない。セミナーを多数開催するといっても、結局は商品の説明会になっているケースがほとんどだ。現在加入している生命保険をみれば、それが知人から勧められたものなのか、そうではないのかはすぐにわかる。金融機関は、賢い消費者を育てると、儲けが少なくなると考えているのだろう(でも知り合いには悪く言われたくない)。結果として、金融教育は進まず、多くの人たちはリスクの少ない預金にお金を預けることになる。その預金が国債にまわって、最終的には自分たちの首を絞めることになるにもかかわらず。

 この循環を断つのは簡単なことではない。ひとついえることは、気づいた人はまず実行して欲しいということ。少額でもかまわないから投資商品を買ってみるとか、本やセミナーに参加して勉強してみるとか、何か行動を起こすことをお勧めする。私のところに相談にいらっしゃるお客様は、よく勉強している人が多い。勉強し、実際にやってみて、うまくいかない人なので、話をしても吸収するスピードが速い。食べ物の例でいえば、食べたことのある人は進化するスピードも速いようだ。まずいものを知っている人は、うまいものに対する要求度も高いということなのだろう。

「食わず嫌い」と、「食べてから嫌いになる」というのは、まったく違うこと。
まず食べることから始めよう!
 
 



2010年4月23日 (金)

細切れ化する時間(電子書籍の未来)

 昨日、友人のKさんと話をしていたら、「電子書籍」のテーマになる。Kさんは2冊の本をすでに世に送り出している大先輩。Kさんは、「電子書籍の普及によって、出版流通が簡素化されると書籍の値段が安くなり、これまでよりもたくさん本が売れるのではないか」とのごい意見を披露してくださった。
 電子書籍の出現によって、書籍の単価が下落するのはほぼ間違いがなさそうだ。ユニクロが流通を簡素化したことによって、日本の衣料品の価格が低下したように。ただし、単価が下がったからといって、たくさん本が売れるのかどうかというところには、疑問符がつく。
 ユニクロの場合、他社と比べて単価は下がったが、買うボリュームも増えた。売上=単価×ボリュームなので、ボリュームが増えた分が貢献して、全体として売上は上がった。では、書籍の場合も同じことがあてはまるのだろうか? 電子化によって単価が下がることにより、もっとたくさん本が読まれるようになるのだろうか?
 単価が下がることにより、これまであまり本を読んでいなかった人たちが本を読むようになるなら、それもあるだろう。コミックなどの分野ではそういうこともありそうだ。お小遣いでは十分なコミックを買い揃えられないので、マンガ喫茶で読んでいたような人たちが、電子化された漫画を購入するという可能性はある。この場合は、マンガ喫茶の売上が電子書籍に移転する(新しいニーズを掘り起こしたわけではない)。
 コミックではない、活字中心の書籍の場合はどうだろうか?単価が下がると、需要も増えるのだろうか。これは難しいと思う。もともと読書の習慣がない人であれば、単価が下がったからといって本を読む気にはならないだろう。自分にとって価値がないものなら、タダであっても欲しくはないと考えるのが普通だと思う。では、もともと読書の習慣がある人がより多くの本を読むようになるという可能性はどうだろうか?これもなかなか難しいと思う。
 作家の日垣隆さんによると、現在の日本で読書の習慣が身についている人は、おそらく20万人程度とのこと。おそらく忙しい中で時間をやりくりしながら、読書を続けていることだろう(自分自身も読書のための時間はなかなかとれない)。このグループの人たちは、本をもっと読みたいという気持ちは強いが、時間がままならないので、読めずにいる本が家の中には山積みになっている場合が多いだろう(私がそうだから)。電子書籍になって、単価が低くなったからといって、ばんばんダウンロードしても、読みきれないデーターがiPadまたはKindleに積み上がるだけになる(物理的にスペースをとらないことはよいけれど)。
 当たり前のことだけど、本を読むには時間がかかる。読書という行為に使うリソースの中では、時間がもっとも重要なのだ。この時間の問題を克服できないかぎり、単価下落が需要増加にはつながらない。衣料品では時間は問題にならない。しかし本の場合は決定的に時間が重要だ。速読術が発達するなど、何らかのブレークスルーがない限り、従来の形態の本が数多く読まれるという可能性は低いと思う。

 このように考えると、「従来の形態の本」に対する需要が爆発的に盛り上がるということはないだろう。その一方で、「これまでにない形態の本」が大きな力を持つことになると、私は予想する。200ページといった長い本ではなく、10ページから20ページぐらいの内容をひとつの本(記事?)として、電子書籍化する流れがでてくるだろう。本の「細切れ化現象」といってもより。この細切れの「本」を100円程度で販売するというビジネスは、おおいに可能性がある。音楽業界では、iPodの出現によってアルバムビジネスが崩壊した。その代わり曲が細切れ化して音楽を聞く人が増えた。同様に、出版業界では、電子書籍の登場によって分厚い本の需要が減り(なくなることはない)、細切れ本が多く出回ることになる。トータルでは活字文化は活性化される。
 現代人の時間は細切れになっている。なかなかまとまった時間がとれない。Twitterがはやっているのも、それが細切れ時間にマッチしたツールだという点が大きい。活字の世界も、この時間の細切れ化に適応したものになっていくというのが自然の流れだろう。

 出版業界では、しばらくはこの細切れ化の勢いが強まると思われる。しかし行き過ぎた細切れ化は、回帰をもたらす。まとまった時間を使って、まとまった考え方を発表する書籍の価値は一部の人たちの間では再評価される。そのような書籍の価値は当然高いものになるはずなので、電子化ておコンテンツを安売りする必要はないだろう。つまり、細切れの情報は電子化により低価格化し、まとまった情報は電子化によっても価格を維持したままという「二極化」の現象がおこる。まとまった情報の提供者は、電子化の波の中でもしぶとく生き残るし、むしろその立場を強めることになるのではないだろうか。

 少し前の話になるが、不正コピー防止のために音楽CDにコピーガードを施すことが多かった。iPodの普及率が高まった後は、コピーガードをかけることにより販売が落ち込むことがわかり、CDにはガードがかけられないようになった。こんな動きの中で、私の敬愛する山下達郎さんは自分のCDにいっさいガードをかけなかった。彼は本質を理解していたのだ。自分の仕事をきちんとしていればファンはついてくるということを。たしかにそのとおり。本物は残りました。さすが師匠。

 

2010年4月22日 (木)

「安く買い、高く売る」のは難しい

 「安く買って、高く売る」 
 それが資産運用の王道。たしかに誰が見ても、間違いではありませんね。プロ投資家であれば、先物取引を利用することで、まず売っておいて値段が下がってから買い戻すといったことができますが、普通の人にとっては現実的ではありません。個人投資家の場合、やっぱり「買う」ところからスタートするのが自然です。
 安いときに買い、高いときに売るというのは、言葉としては簡単なのですが、実践するのは難しいです。リーマンショック後に株価が急落した局面では、安くなった株式を買うチャンスでした。しかし毎日株価が下落し、底が見えないところで株を買うのは勇気が必要です。人間心理として、どうしても弱気になってしまい、もう少し様子を見てからという気持ちが強くなります。ほとんどの場合、そんな風にぐずぐずしている間に株価は反転し、チャンスを逃してしまうことでしょう。いまから考えれば、2009年3月あたりは絶好の買いタイミングでしたが、それはいま(2010年4月)の時点だからいえることで、2009年3月の時点では誰にもわかりませんでした。一定の時間が経過した後、後付けで「あのときがチャンスだった」といっても何の意味もありません。そのときに株を買うという行動ができるという点が重要なのです。

 では、どうすれば株が値下がりしているときに買うことができるのでしょうか。その具体的な方法については、拙書『預金、やめた。』(ダイヤモンド社)で詳しく解説したので、ここでは違った視点から考えてみたいと思います。
 当たり前のことで恐縮なのですが、株取引には「買い」と「売り」があります。相場の動きとの関係で売り買いをするので、売り買いそれぞれについて2つのパターンにわけることができます。

(買い1)値下がりしているときに買う
(買い2)値上がりしているときに買う

(売り1)値下がりしているときに売る
(売り2)値上がりしているときに売る

 買いと売りをセットにすると、以下の4つの組み合わせができあがります。

A 値下がりしているときに買い、値下がりしているときに売る
B 値下がりしているときに買い、値上がりしているときに売る
C 値上がりしているときに買い、値下がりしているときに売る
D 値上がりしているときに買い、値上がりしているときに売る

 ここで「値下がり」「値上がり」といっているのは、相場のトレンドのことを指しています。Aの例であれば、それまで1000円の株が800円になったところで売るという意味ではなく、1200円から1000円に値下がりしたトレンドで株を買い、しばらく保有した後、値下がりトレンドの中で売ったという意味です。Aのケースだと必ず損をするかのような印象を受けますが、儲かっていることもあるのでご注意ください。
 
 4つの組み合わせの中では、Bの「値下がりしているときに買い、値上がりしているときに売る」がベストです。まさに王道そのものですね。最悪はCの「値上がりしているときに買い、値下がりしているときに売る」。残ったAとDについてはどちらがいいとは言い難いのですが、Dのように値上がりしているときに買い、そのまま値上がりが続いている中で、株を売ることができれば気分的には最高だと思います。一方で、Aのように値下がりしているときに買うのは勇気がいる行為ですが、値段が下がっているところからスタートしているので、失敗する確率は低いと思います。

 理屈上は、B>AまたはD>C というランク付けになりますが、個人投資家が実際にやっているのはCのケースが非常に多いのが現状です。値段が下がっているときにわざわざ株を買うという人は、残念ながらまだまだ少ないと思います。本当はそのほうが成功の確率は高いのだけど。多くの人は、株が値上がりしているときに投資を始め、しばらくいい思いをした後で、出口を見つけられないまま損を抱えることになります。

 資産運用に取り組まないと、なかなかお金は増えていかない。しかしその一方で、心理的に「安く買い、高く売る」というのは難しい。このジレンマを解決しないかぎり先には進めません。ひとつの方法としては、何らかの理由で値段が下がっている会社の株を買うというようなことが考えられますが、一個人が価値のある情報を、適法に集めることはなかなかできません。資金と時間に余裕がある人なら別ですが、大多数の人にとっては現実的な方法とはいえないのではないでしょうか。

 ではどうすればいいのでしょうか。行き詰ってしまった場合は、考え方をジャンプさせてみましょう。問題は「値下がり」や「値上がり」が予測できないことにあります。それについて予測してしまうから悩みがつのることになるのです。値動きを考える必要はなければ、それに越したことはありません。

 したがって、結論はシンプルです。「値動きに関係なく買い、値動きに関係なく売る」 それが答えです。100の資金があったら、全部をいちどに投資するのではなく、10または100に分けて、少しずつ資産を購入する。こうすれば値動きの影響を減らすことができます。「ドルコスト平均法」といわれる方法ですね。従業員持株会などで採用されている方法です。投資信託などでも毎月一定額を買い付けるというしくみがあります。ポイントはルールに基づいて機械的にやること。感情の要素が入ってくると失敗しやすいのでご注意。

 ドルコスト平均法については、心ある専門家はみなさん指摘されているので、ご存知の人も多いと思います。しかし、これだけでは物事の半分しか見えていないと思います。資産運用は「買い」と「売り」がセットになっているのですから。ドルコスト平均法は、買うときに値動きの影響を減らすためには有効だけれど、売るときに関しては何も教えてくれません。相場は生き物なので、値動きの影響を減らしたいのであれば、定期的に資産を買うのと同じように、定期的に資産を売るということも覚えておくべきなのではないでしょうか。買うことだけにフォーカスして、売ることはわかりませんというのは、親切ではありません。ドルコスト平均法を使って資産を積み上げていっても、相場が暴落したら、もろに影響をかぶってしまいます。もしそれが自分の退職のときだったりしたら目も当てられません。

 この考えを進めていくと、買うときはドルコスト平均法を活用し、使い時には少しずつ現金化していくのがよいということになります。具体的には、確定拠出年金(401K)や変額年金・変額保険のしくみが有効でしょう(ただし商品によっては有効でない場合も多いので、内容はよく確認する必要があります)。これらのしくみは。こつこつと積み立てて、使うときには少しずつ年金というかたちで現金化することができます。うまく活用すれば、相場の影響を受けにくいしくみを作り上げることができるはずです。感情に左右されずに資産運用を続けるには、何らかのしくみが絶対に必要です。

 今回は「ドルコスト平均法」の考え方を、売る場合にも活用できることを紹介しました。当たり前のことなのですが、なかなか気づかないかも知れません。参考にしてみてください。ひとつ気になっているのが、この考え方を説明する用語がないこと。「逆・ドルコスト平均法」というのもおかしいので、よいネーミングを思いついた人は、ぜひ教えてくださいね。
 

2010年4月21日 (水)

iPhoneは携帯電話ではない!

 一ヶ月ほど前から iPhone を使い始めた。作家・ジャーナリストの日垣隆さんが開催する読書会で、KindleまたはiPhoneを使った電子書籍の読み方を紹介すると告知があったことがきっかけだ。もちろん多くのiPhoneユーザーと同じく、これまで使っている携帯はそのまま使っている。実際にiPhoneを使ってみると、その機能の多彩さには驚くばかり。携帯やiPodだけでなく、YouTubeやTwitterをスムーズに使いこなすことができる。アプリも豊富に用意されて、これさえあれば一日時間をつぶせそうだ(バッテリーが続く限り)。

 そこで iPhone をまだ使っていない知人に薦めてみる。
「いや~、最近携帯を替えたばかりだから。契約が切れてからにするよ。」との答え。

 「ちょっと、違うんだけどな・・・」と内心では思う。しかしそこからどう話を進めていけばよいのか思いつかない。iPhone=携帯電話ととらえている人に、iPhoneの持つ良さを短い言葉で伝えるのはなかなか難しい。ちまたでは、iPhoneを「スマートフォン」という呼び方をし、携帯電話の中でもビジネスユースに強い機種というかたちで紹介される。ただ、実際に使ってみると、iPhoneは「優れもの携帯電話」とはちょっと違う感じがする。この感じをどう伝えたらよいのだろう。「電話もできて、音楽が聴けて、動画が見られて、ツイッターができて、ゲームもできるんだよ」というのでは、何か伝え切れていないものを感じてしまう(間違いではないのだけれど)。パソコンを小さくしたものというのも、違う気がする。

 あるモノを説明するために、私たちはよくカテゴリーに分類する(iPhoneは携帯電話、この本は小説というジャンル、あの人はA型などなど)。便利な方法であるのは間違いない。説明する側とされる側が、従来のカテゴリー分けに共通の認識をもっていれば、説明もスムーズにいくからだ。

 しかし、カテゴリー分けにはデメリットもある。それは、あるカテゴリーに分類することによって、そのモノの持つ性質の一部しか見えなくなってしまうことだ。iPhoneに電話機能がついているのは間違いないが、同時にデジカメでもあり、音楽プレイヤーでもあり、小さいパソコンでもある。電話とデジカメとiPodとネットブックを別々にそろえれば、iPhoneになるのかというとそうではない。さまざまな機能が一体化したことにより、iPhoneではこれまで難しかったことが、いとも簡単に可能になる(ツイッターで現場から写真を世界中に送ることなど)。ひとつひとつの機能自体は特に目新しいものではなくても、それがひとつのパッケージになると、これまでとは違った使い方ができる。

 このように考えると、iPhone=携帯電話ととらえるのは、デメリットのほうが大きい気がする。私たちは分類して、いろいろなものにラベルをつけることに慣れている。しかし、分類することによって失うものもある。iPhoneに限らず、自分の身の回りのものやサービスを、従来の分類とは別の観点で、「ありのまま」見つめることが必要なのではないだろうか。頭でっかちになって、既存のカテゴリーにこだわる人は、iPhoneにはなかなか手がでないだろう。だって、その人の頭の中ではあくまで携帯の一種なのだから。これはもったいない話だと思う。

 私が扱っている「変額保険」という商品も、iPhoneと同じような問題がある。保険という名前がついているために、ほとんどの人が従来の保険と同じように受け止めてしまうのだ。変額保険はたしかに分類上は生命保険に属することになるが、実際はかなり「投資信託」に近いものだ。生命保険の分野から投資信託に近づいた商品が、変額保険ということになる。反対に投資信託の分野から生命保険に近づけば、「保障機能つき投資信託」という分類になることだろう(注:実際にはこういう呼び方はしません)。
 
 変額保険はうまく活用すれば、資産運用には有効な手段となる。ところが「保険」という名前がついていることによって、損をしている。「生命保険は資産運用に向いていない」という世間の常識が、素直に物事を見ることを妨げてしまっている。もったいないなあと感じる。保険と投資は別々に考えるというのが、世間では常識のようだが、必ずしもそうではない。生命保険も投資信託も金融商品という大きなカテゴリーではさしたる違いはない(資金を金融機関預け、一定の条件の下に見返りを受けるという意味で)。

 iPhoneの立場からすれば、携帯電話に分類されるのは不本意だと思う。それでも実際に使ったユーザーからの支持を得て、iPhoneは爆発的に売れている。やぱり使ってみた人にはわかるのだ。私のお客様の中には、変額保険フリークといえるような人もいる。世間の風に負けずに、多くの人をunlearn(常識の呪縛をとくこと)していこう。柔軟な脳を持つ人なら、私の言いたいこと(ちょっと変わっている?)こともきっと伝わるはずだから。



«土管を制するものは、世界を制す?

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